OUT~30にして隠居す~

30にして脱サラし隠居したある男の話

30手前にして隠居に至った経緯

もう隠居して数年がたつが、ここで改めて私が30手前にして隠居に至った経緯を書き記しておきたい。

そもそも私は幼少期は神童といわれ(いわれてない)、

なかなかよく勉強ができた(他のことは全くできなかった)。

進学校から東京の旧帝大に入り、周りは私の将来は約束されたとみていたに違いない(私も入学式の当日まではそう思っていた)。

しかし入学式の当日、あれほどまでに苦労して(といってもまともに勉強したのは高校3年の1年間だけだったが)入った大学に、こんなに多くの学生がいるのか(当然だろう)、こんなチャラそうなやつでも入れるのか(見た目で人は判断できぬものだ)、と衝撃を受けるとともに、己の姿を鏡で見て愕然とした。そこには、少しの勉強以外何もやってこなかった(何も他にできなかった)、外見も醜く性格も内向的でどうしようもない貧乏学生が映っているのだった。

この時の心情変化を、燃え尽き症候群と断じるのは容易だが、ある種の心理的「転調」が起こったと捉えたほうが良い。いわばそれまで受験勉強にさえ勝てばすべてが報われると自己暗示をかけ、その他の欠点に目を向けずにいた人間が、受験の終了により自身の余りあるコンプレックスに目を背けてはいられない状況に引きずり込まれたのである。

ある種、受験ができるうちは幸せであった。

その後の就職活動、社会活動において、私はオール1の成績になることは容易に想像がついていたため、私は入学式=自身の栄光の終了を意味することにその時遅まきながら気づいたのだった。

当時の両親はなぜ私が入学当初から大学を毛嫌いしているのか理解に苦しむ様子だった。当然だろう。だが、私にとってみれば、こちらもまた、当然だったのである。

4年間の大学生活で得たものは、東京の地理に少し詳しくなったのと、仕送りをコツコツ貯め100万ほど貯めたのと、あとはネットリテラシーが少し上がったことくらいであった。

就職活動はこんな私でもさすがに旧帝大ブランドで一次や二次選考はそこそこ通ったが、最終選考まで行って落ちるところも数社あった。短時間の面接での演技には自信があったが、それでもサークル一つはいらずの履歴を見ればなんとなくわかるのだろう、また、随所でぼろが出ていたのかもしれない。

それでもなんとか内定をもらい、大学の留年も免れ4年で卒業が決まり、就職することとなった。

しかし4年の3月くらいから私の気持ちは憂鬱で仕方なかった。昔から集団生活が極めて苦手で学校も嫌いだった私が、さらに長時間、よりシビアに集団に拘束される社会人生活になじめるとは到底思わなかった。一方、ビジネスや金儲けには興味があり、ブランドマーケティングなどの勉強も個人的にしていたので、むしろ自分で起業して生きていきたいとも思うようになっていたが、せっかくの内定を得た身に周りがそれを許すはずもなく、結局流されるままに4月1日を迎えた。

入社式の訓示を聞きながら、私はこの生活が40年続くことは懲役40年に匹敵、あるいはそれ以上の苦痛だと直感した。もともと高校、大学時代からのストレスで心身症であったこともあり、体調的にもこれを続けるのは自殺行為だと感じた。普通の人が苦も無く朝6時に起き帰宅は8時9時、といった生活を、私は送る体力も気力もすでになかった。怠け者といわれるかもしれない。しかし、もともと夜が苦手でロングスリーパーであり、受験期ですら毎日8時間寝ていた(昔は4当5落といい4時間しか寝ずに勉強したものが受験に合格すると言われたという)私にとって、社会人の忙しさと拘束時間の長さはありえないものだった。私は、早々に退職を決意した。

しかし実際に退職すると周りの風当たりはきつく、親は自殺するとまで言い始めた。まあ子供のあまりの凋落を目の当たりにし気持ちはわからなくもない。もともと過干渉な今でいう毒親であったため、家庭内で殺人すら起きても不思議ではなかった。

殺されるにはまだ早いと思い、再び就職活動を行い、別の企業に入ることになった。

そこは仕事の内容的にも楽で、拘束時間も定時上りが可能なところであったため、とりあえず数年は勤められるかと感じた。少なくとも前の企業よりはまったりできるところであった。それでも毎日が苦痛でたまらなかったが、考え方を変え、今は雌伏の時だと自分に言い聞かせ、私は20代を捨てることにしたのだ。

文字通り、20代を捨てきり、30手前にして脱サラした。

もう、親も周りも、諦めていた。